原画情報: |
96×130cm 1881-1882年 コートールド美術研究所 |
作者紹介: |
マネは1832年、パリのブルジョワの家庭に生まれた。父は司法省の高級官僚であった。はじめ海外航路の船員となるが、1849年、17歳の時に画家になることを決意し、翌1850年に当時のアカデミスムの大家、トマ・クーチュールに弟子入りし、1856年まで学んだ。1859年、初めてサロン(官展)に出品した『アブサンを飲む男』が落選したが、審査員を務めたドラクロワや、詩人のボードレールからは高く評価された。1861年、『スペインの歌手』と『オーギュスト・マネ夫妻の肖像』をサロンに出品し、2作とも初入選する。マネの画風はスペイン絵画やヴェネツィア派の影響を受けつつも、明快な色彩、立体感や遠近感の表現を抑えた平面的な処理などは、近代絵画の到来を告げるものである。
1863年の落選展に出品した『草上の昼食』は物議をかもし、2年後の1865年のサロンに展示された『オランピア』は、さらに大きなスキャンダルとなった(その理由については評価の節を参照)。
1870年代以降は、自らが示唆を与えた印象主義から逆に影響を受け、戸外での制作を積極的に行い、作風も印象派に特有の素早い筆致が目立つようになった。ただし上記の通り、印象派展には一度も参加せず、あくまでも(芸術運動としての)印象派とは一定の距離を置き続けた。
1878年から体調が不安定になり、1880年代に入ると左足が壊疽にかかり歩行困難となった。1882年、晩年の代表作である『フォリー・ベルジェールのバー』をサロンに出品した。翌1883年に左足を切断したが、同年4月30日に死去した。
『草上の昼食』と『オランピア』はいずれも激しいスキャンダルを巻き起こした作品として知られる。『草上の昼食』では、戸外にいる正装の男性と裸体の女性を描いたことから、不道徳であるとして物議をかもした。また、『オランピア』に描かれた裸体の女性は、部屋の雰囲気や道具立てなどから、明かに当時のフランスの娼婦であることがわかり、それが当時の人々の反感を買った。西洋絵画史において裸婦像は数多く描かれてきたが、それらはあくまでもただの「裸婦」ではなく、ヴィーナス、ディアナなど神話の世界の「女神」たちの姿を描いたものであった。しかし『草上の昼食』と『オランピア』では、当時のフランス社会に生きる生身の女性を裸体で描いたため、「不道徳」だとされたのである。しかし、マネの絵画の抱える問題は、そのような社会的なものに留まらず、むしろ造形的な問題へと発展する。それまでの西洋絵画の伝統を踏襲しつつそれを解体する。写実主義から受け継いだ思想は、マネを「近代」の画家へと導いた。研究が高度に進んだ現代においても、最も謎を残す画家の一人である。なぜ彼がそれまでの伝統を打ち壊し、近代の画家となりえたのか。あるいは彼が描く絵画そのものに隠された謎のモチーフの数々の意味するところは何か(『草上の昼食』における蛙や鳥、『オランピア』における黒猫など)。これらの謎も、マネの大きな魅力の一つでもある。
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作品紹介: |
エドゥアール・マネ最晩年の傑作『フォリー=ベルジェール劇場のバー』。画家が死の前年に完成させた、最後のサロン出典作でもある、この類稀な傑作に描かれるのは、当時流行に敏感な人々が挙って集ったパリで最も華やかな社交場のひとつであったフォリー=ベルジェール劇場のバーと、シュゾンという女性をモデルにした給仕の姿である。画家はこの頃(おそらく梅毒によって)左足が壊疽しかけており、激痛に耐えながらもフォリー=ベルジェール劇場に通い習作を描くも、痛みが増し、歩けないほどまでに悪化すると、アトリエに同劇場のバーのセットを組み、そこにモデルを立たせ本作を完成させたことが知られている。女給仕シュゾンの背後の情景は鏡に映ったフォリー=ベルジェール劇場で繰り広げられる様々な情景であり、画面右部分で紳士(モデルは画家のガストン・ラトゥーシュ又はアンリ・デュプレ)と会話する女は給仕本人の鏡に映る後姿である。中央では給仕を真正面から捉え描き、右部の鏡に映る後姿は紳士と共に角度をつけて描かれている点などから、本作では現実ではありえない構図的・空間的矛盾が生じており、発表当時は辛辣な酷評を受けたものの、平面的でありながら空間を感じさせる絵画的な空間構成や、給仕の魅惑的とも虚無的とも受け取ることのできる独特な表情は、観る者をフォリー=ベルジェール劇場の世界へと惹き込む。パリという都会の中で興じられる社会的娯楽を的確に捉え、そのまま切り取ったかのような本作では技法的にも、大胆に筆跡を残す振動的な筆さばきや色彩など特筆すべき点が多々存在し、中でも画面前面に描かれる食前酒など様々な酒瓶、オレンジや花が入るクリスタルのグラスなどの静物は秀逸の出来栄えを示している。 |