原画情報: |
75.5×99.0cm 1883年 トレチャコフ美術館(モスクワ) |
作者紹介: |
イワン・ニコラーイェヴィチ・クラムスコイ(Иван Николаевич Крамской, 1837年5月27日(グレゴリオ暦6月8日) - 1887年3月24日(グレゴリオ暦4月5日))は、ロシアの画家・美術評論家。1860年から約20年にわたって移動派の知的・精神的な指導者であり続けた。
貧しい小市民階級の出身。1857年から1863年までペテルブルク美術アカデミーに学ぶ。官製美術に反撥し、「14人の叛乱」の首謀者としてアカデミーから放校処分に付されるが、その仲間とともに「美術家組合 "Артель художников"」を組織する。
帝政ロシアの民主化を求める革命家の理想に感化され、クラムスコイは芸術家の公共への高邁な義務や、写実主義の原理、倫理的な内容および芸術の民族性について具体的な説明を開陳した。また、「移動展覧会協会」(もしくは「移動派」)の主要な創設メンバーの一人であり、その理想主義者であった。
クラムスコイはまた画家について、預言者であり「人々の前に鏡を置き、その鏡を見て彼らを不安にさせる」使命をもつと捉えていた。
1863年から1868年まで、実用芸術奨励協会・絵画教室の教員となる。画廊を設けて、ロシア最大の作家や知識人・芸術家など、公人の肖像画を展示した(1873年作のレフ・トルストイ像およびイワン・シーシキン像、1876年作のパーヴェル・トレチャコフ像、1879年のミハイル・サルトゥイコフ=シチェドリン像ならびに1880年のセルゲイ・ボトキン像)。これらの作品では、構図の味わい深い単純さと、図像の明快さが、心理学的な深い洞察という特色の主柱となっている。クラムスコイの民主的な目線は、庶民の描写に輝きを見出し、描き出された庶民の肖像は、民衆の中の個人の、実直さという宝物や内面的な美しさを映し出している。
曠野のイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)代表作は「曠野のイイスス・ハリストス(イエス・キリスト)」(1872年、トレチャコフ美術館蔵)である。クラムスコイは、アレクサンドル・イワーノフの人道主義の伝統を持続させつつ、倫理的・哲学的な案によって宗教的な趣向を取り扱っている。イエス・キリストの経験を、非常に心理学的かつ決定的に――すなわち英雄的な自己犠牲という観念として――解釈しているのである。
遣る瀬ない悲しみクラムスコイは、イデオロギー的な視覚芸術をさらに擁護しようと切望して、肖像画と主題性のある絵画作品との境界上に値する美術を創り出した(「『最後の詩』の頃のネクラーソフ (И.Н. Некрасов в период "Последних песен")」[1877年-78年]、「見知らぬ女」[1883年]、「遣る瀬ない悲しみ」[1884年])。それぞれの絵ごとに異なるのは、複雑な偽らざる衝動、人物、運命をいかに表出するかという関心である。
美術における民主志向や、美術についての鋭い判断、客観的かつ公的な芸術の評価基準についてのクラムスコイの粘り強い探究心は、19世紀後半のロシアにおける民主主義的な芸術や芸術理念の展開に、本質的な影響をもたらしたのだった。
|
作品紹介: |
ディテールが素晴らしく、帽子の白い縁取りがベルベットの布地を際立たせ、真珠飾りとダチョウの羽飾りが非常にリアル。光るサテンのリボンに茶色の毛皮、金の腕輪もリアルに迫ってきます。
背景にぼんやり描かれた街並みも厳冬のロシアをよく表現しています。
外気の冷たさとは対照的に、女性の内には秘めた静かな情熱がたぎっているかのようです。
クラムスコイは、15歳のときイコン画家のもとで絵の勉強を始め、軽い気持ちで受けたペテルブルグ芸術アカデミーに合格してしまいます。その後、卒業制作をボイコットしアカデミーを去り、移動美術展協会の創立者となります。移動美術展協会とは、アカデミー派の作品に対抗しリアリズム絵画を民衆に浸透させるために各地で展覧会を行った芸術家集団のことだとか。
しかし、1880年以降、移動美術展協会内部の問題が起こり、二人の子どもを亡くし、妻が病に倒れると、彼自身にも病魔が。
長年の大作「嘲笑。喜べ、ユダヤの王よ」の制作を続けていましたが、1882年に筆を折ってしまいます。
この「忘れえぬ女」を描いたのは1883年。そんな精神的苦境のさなかに描かれた作品とは思われないほどの魅力に溢れています。
クラムスコイは、その4年後、医師の肖像画を描いている最中に倒れ、絵筆を持ったままこの世を去りました。
|