原画情報: |
92×73cm 1889年 ノックス・アート・ギャラリー |
作者紹介: |
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン(Eugene Henri Paul Gauguin, 1848年6月7日 - 1903年5月8日)は、フランスのポスト印象派の最も重要かつ独創的な画家の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。
1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。
フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人(証券会社の社員)となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。株式相場が大暴落して仕事に不安を覚えたとき、安定した生活に絶対的な保証はないと気付き、勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。
1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。
1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。一般的にゴッホが自ら耳を切ったとされるこの事件だが、近年になり異説が唱えられ、耳を切ったのは実は剣を振りかざしたゴーギャンであったとも言われる(ゴッホ美術館専門家などは反論している)。
タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館 蔵西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメのもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館)
3人のタヒチ人(1899年)タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。
ポール・セザンヌに「支那の切り絵」と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったが、死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。
1919年に出版された、サマセット・モームの小説「月と六ペンス」の主人公のモデルとされる。
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作品紹介: |
近代絵画芸術の巨人ポール・ゴーギャン第三次ブルターニュ滞在期の代表作『黄色いキリスト』。第二次ブルターニュ滞在期に画家が手がけた作品『説教のあとの幻影(ヤコブと天使の闘い)』と並び、象徴主義的な総合主義絵画の代表的作例として知られている本作に描かれるのは、ブルターニュの農婦らが厚い信仰によって磔刑に処される主イエスを幻視する姿である。象徴的に描かれる黄色の主イエスの姿は、≪総合主義(サンテティスム)≫の提唱した地でもある、ブルターニュ地方ポン=タヴェン近郊の教会≪トレマロ礼拝堂≫の木彫りのキリスト像(十字架像)から着想が得られているが、主イエスの姿は農婦らの幻視ではなく、画家自身の内面的心象の表れであると考えられている。事実、ゴーギャンは同時期に、この黄色い主イエスの姿を背後に配した自画像『黄色いキリストのある自画像(サン=ジェルマン=アン=レ美術館所蔵)』や、キリストの顔を自身の顔に変えた『オリーブ山のキリスト(ノートン・ギャラリー所蔵)』を制作している。秋のブルターニュの風景の中に描かれる、主イエスや敬虔な農婦らの姿、朱々と紅葉する木々、黄色く輝く丘などは太く明確な輪郭線によって個々が区別され、内部の平面的で強い(原色的な)色彩描写によって純化されている。これらクロワゾニスム(対象の質感、立体感、固有色などを否定し、輪郭線で囲んだ平坦な色面によって対象を構成する描写方法)を用いた独自的な絵画展開は、画家とエミール・ベルナールが提唱した総合主義そのものであり、今なお、その輝きは色褪せず、観る者へと深く迫ってくるようである。なお内容的・表現的特徴の類似からエミール・ベルナールは本作を見た後、「これは私の作品の盗用である」との言葉を残している。 |