原画情報: |
1879-80年 49.2×60.3cm 所蔵:損保ジャパン東郷青児美術館 |
作者紹介: |
ポール・セザンヌ (Paul Cezanne、1839年1月19日 - 1906年10月22日)はフランスの画家。ポスト印象派の時期に活躍し、「近代絵画の父」として知られる。後進への手紙の中で「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と書き、この言葉がのちのキュビスムに大きな影響を与えた。同時期の画家としてはゴッホやゴーギャンがいる。
彼の肖像はユーロ導入前の最後の100フランス・フラン紙幣に、その作品と共に描かれていた。
生涯
1839年、ポール・セザンヌは裕福な銀行家の息子として南フランスのエクサン・プロヴァンスに生まれた。自然主義文学の代表的作家エミール・ゾラとは少年時代からの友人だった。
1862年、画家を志してパリに出る。ロマン主義のウジェーヌ・ドラクロワ、写実主義のギュスターヴ・クールベ、のちに印象派の父と呼ばれるエドゥアール・マネらから影響を受ける。
「カフェ・ゲルボワ」の常連たち(後の「印象派」グループ)と知り合い、とくに9歳年長のカミーユ・ピサロと親しくなった。二人は1872年にはポントワーズで、1873年にはオヴェール・スュロワーズでイーゼルを並べて制作した。この頃、オルタンス・フィケと知り合い後に同棲するが、厳格な父を恐れ長男ポールの誕生後も彼女との関係を隠し続けた(発覚後、父は激怒したという)。
1874年の第1回印象派展に『首吊りの家』を出品し、以後第3回に出品した。
初めてサロンに入選したのは43歳のときである(『画家の父』(1882年))。このときセザンヌは友人の審査委員に頼み込み、やっとの思いで入選を果たしたという(ゾラとの絶交はこの不正が原因とも見られる)。
1886年、ゾラの小説『制作』が自分を中傷していると感じ、ゾラと絶交した。同年、父親が亡くなったため遺産を相続し、内縁の妻と正式に結婚した。そして故郷に戻り、サント・ヴィクトワール山などをモチーフに絵画制作を続けた。経済的な不安はなかったものの、絵はなかなか理解されなかった。
1895年、アンブロワーズ・ヴォラールの画廊で初個展を開き、一部の若い画家たちから注目され始めた。
セザンヌは、時間とともに移ろう光を追いかけている印象派に不満だった。彼の「絵画は、堅固で自律的な再構築物であるべきである」という考え方は、続く20世紀美術に決定的な影響を与えた。
エピソード
セザンヌの青春時代のある日近所の農家の家が火事になった。セザンヌはその農家の家が燃える様子を見ていて、その炎に見とれてしまった。そこに消防士がやってきてその火事を消し止めようとするが、セザンヌは「初めにこの炎を消そうとするものはこれを一発見舞ってやる!」と懐からピストルを一丁取り出し消防士にその銃口を向けた。当然誰も身動きが出来ないまま家はとうとう全焼してしまった。
セザンヌは異常なまでな潔癖症だった。例えば、ちょっとでも洋服が誰かに触れた、もしくはすれ違っただけで何度も何度もぬぐった。特に彼は女性を忌み嫌っていたため、女性の場合はこの癖はひどかった。
作品は時間をかけて何度も描き直され、最初の構図を留めないものも多い。絵が完成する前にリンゴなどが干からびてしまうことも多かったという。
セザンヌは人付き合いが極端に苦手な性格で心を許せる友人はカミーユ・ピサロなど数人に限られていた。さらに、オルタンスや息子のポールの存在が発覚したとき厳格な父とのパイプ役となったのは母親であったが、この母はオルタンスと折り合いが悪いという有様であった。父の死後、セザンヌは母と妹とも一つ屋根の下で暮らすことになるが、この女性3人はケンカばかりしていたため家庭では常に居心地の悪さを感じていた。そんな環境の中で、セザンヌは一人息子のポールに対してだけは終生変わらぬ愛情を注いだという。
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作品紹介: |
静物はセザンヌにとり、最も重要な主題の1つでした。
机の上のりんご、ナプキンの窪み、セザンヌは描きたいと思う題材を自らの手で、理想的に配置し、
構成することができました。
背景の木の葉模様は壁紙で、この壁紙のある静物画のグループは1879~80年の制作とされます。 |