原画情報: |
作者 ラファエッロ・サンティオ
制作年 1509年 – 1510年
素材 フレスコ
寸法 500 cm × 700 cm (200 in × 280 in)
所蔵 バチカン宮殿(バチカン市国)
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作者紹介: |
ラファエロ(ラファエルロ)・サンティ(Raffaello Santi, 1483年4月6日 - 1520年4月6日)は、盛期ルネサンス期を代表する画家、建築家。ミケランジェロが偉大な改革者であるのに対し、ラファエロはそれまでの芸術手法を統合、洗練して、女性的で優雅な様式を確立した、総合芸術の天才であると言える。その資質は彼の死後も賞賛され、模倣された。ラファエロ・サンツィオ・ダ・ウルビーノ(Raffaello Sanzio da Urbino)の表記もある。英語読みのラファエル(Raphael)とも書く。
生涯
1483年、宮廷画家ジョヴァンニ・サンティの子としてウルビーノに生まれ、父親から絵画の教育を受けた。ジョルジョ・ヴァザーリによれば、幼少期にペルージャのピエトロ・ペルジーノに師事したことになっているが、ペルジーノに大きな影響を受けたのは事実であるものの、今日ではこの逸話は否定されている。1501年に、チッタ・ディ・カステッロのサン・タゴスティーノ教会祭壇画(今日では断片のみが残る)を完成させ、1504年にはアルビッツィーニ家の発注による『聖母の結婚』を作成した。この頃の作品としては、ほかに『騎士の幻想』などがある。これらの作品はペルジーノの作風を残してはいるものの、すでにそれを完全に超越している。
1504年、ラファエロはフィレンツェに拠点を移し、ペルージャやウルビーノに滞在して作品を残した。フィレンツェ滞在中に、『マッダレーナ・ドーニの肖像』、1507年には『美しき女教師』、1508年にはサント・スピリト教会の『天蓋の聖母』を作成した。この頃の作風は、レオナルド・ダ・ヴィンチの様式を吸収し、フラ・バルトロメオの影響を受けて力強く堂々としたものに変化していた。
ドナト・ブラマンテの勧めで1508年にローマを訪れたラファエロは、教皇ユリウス2世に雇われ、1509年からバチカン宮殿の署名の間(特に有名なものとしてフラスコ画『アテナイの学堂』が挙げられる)、ヘリオドロスの間を手がけた。彼は、ローマで自らの様式を開花させ、1512年頃と推測される『サン・シストの聖母』をはじめとする傑作を数多く作成した。また、同時期にサン・エリジオ・デッリ・オレフェチ教会の設計を行い、建築家としての経歴もスタートさせている。1512年にはサンタ・マリア・デル・ポポロ教会のキージ家礼拝堂、1515年にはパラッツォ・ブレッシャーノ・コスタ、1517年にはパラッツォ・パンドルフィニの設計に携わった。
彼は、従順で仕事をそつなくこなしたので多くのパトロンを持ち、1512年には、ユリウス2世の『肖像』、銀行家キージ家の依頼で『ガラテイアの勝利』、1517年には教皇レオ10世とジュリオ・デ・メディチ枢機卿、ルイージ・ディ・ロッシ枢機卿の『肖像』を仕上げた。1514年、ブラマンテの死によって、サン・ピエトロ大聖堂の主任建築家に任命され、1517年には、ローマ古物監督責任者に推挙されるなど、芸術家としては異例の富と権力を手中にしたが、1520年、誕生日でもある日、37歳の若さで亡くなった。ヴァザーリは性愛の楽しみが過ぎたためだ、と書き残している。永らく熱病による死とされていたが近年の研究では性感染症によるとの説も出ている。墓は、パンテオンにある。
影響
レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロと並び、西洋絵画の古典として後の世代の画家に多大な影響を与えた。代表作『アテナイの学堂』は、バチカン宮殿に4部屋ある「ラファエロの間」のうちの「署名の間」を飾る壁画。当時の教皇ユリウス2世の委嘱を受けて制作したもので、当時ラファエロは20歳代半ばの若さであった。古代ギリシアの哲学者、科学者などを描いた『アテナイの学堂』の画面の中央に位置するのはプラトンとアリストテレスで、それぞれレオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロがモデルとされている。また画面にはラファエロ自身も描き込まれているが、彼の視線の先には彼の恋人であったラ・フォルナリーナの姿が確認できる。
彼の建築に対する興味も、『アテナイの学堂』に見られる格間ヴォールトの正確さによって明らかである。ラファエロの設計した建築はドナト・ブラマンテの影響が強いが、より繊細で明確なもので、特に室内装飾は優美で、後世に与えた影響は大きかった。
彼の肖像はアテナイの学堂と共に、ユーロ導入前のイタリアの最高額面500,000リレ紙幣に描かれていた。
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作品紹介: |
アテナイの学堂(アテナイのがくどう、伊: Scuola di Atene, 英: The School of Athens)はルネサンス期イタリアの画家ラファエロ・サンティのもっとも有名な絵画の一つである。描かれたのは、ローマ教皇ユリウス2世に仕えた1509年と1510年の間である。バチカン教皇庁の中の、現在ラファエロの間と呼ばれる4つの部屋の壁をフレスコ画で飾ることになって、ラファエロはまず署名の間と呼ばれる部屋から着手することにした。そして、最初に『聖体の論議』を仕上げてから、2番目に手がけたのがこの『アテナイの学堂』である。その絵は、長きにわたってラファエロの最高傑作とみられてきた。盛期ルネサンスの古典的精神を見事に具現化したものと言えよう。
この絵に描かれている人々は有名な古代ギリシアの哲学者たちである。研究者たちは、ギリシアの学者(哲学者・科学者)のほとんどをこの絵の中で見つけることができるはずだと言い続けてきた。しかし、ラファエロははっきりと誰を描いたと言っていなかったので、絵の中に描かれている人物が誰か、正確に言い当てることははなはだ難しい。それを説明する同時代の記録も存在していない。さらに問題を悪化させるのは、ラファエロは、絵の中の哲学者・科学者が誰なのかを読み解いてもらうための全員分の仕掛け(図像学)を作っていたはずだが、それを記録として残していなかったことだ。とはいっても、絵の中に誰を描くかの選択をするのに、多くの人の承認が要ったはずと思われる。
舞台設定 :学堂はギリシャ十字(縦横が等しい十字)の形の中にあり、キリスト教神学と非=キリスト教のギリシア哲学との調和を意図したものと思われる。その建築様式はドナト・ブラマンテに触発されたもので、ジョルジョ・ヴァザーリは、ブラマンテは実際にこの絵を手伝ったと言っている。研究者の中には、学堂そのものがサン・ピエトロ大聖堂の正面からの景観になるように意図されていたという人もいる。後ろの方に2つの彫像があり、向かって左は竪琴を持ったギリシアの神アポローンで、医、治癒、光、真実、弓矢、音楽の神である。一方右側にいるのは、やはりギリシアの女神アテーナーだが、ローマの女神ミネルウァの恰好をしている。アテーナーは知恵の女神である。
登場人物 :プラトン、アリストテレスなど、絵のなかの哲学者の何人かの身元は異論のないところだが、その他大勢の人物については研究者の間で意見が食い違っている。以下に示すのは、そのうちの一つ、Michael Lahanasの推理である。
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